まなめはうす

良いニュースで、良い人生を。

情報発信の容易さによって新たに可視化される情報が増えていく中で

ゲーム界隈のエントリをいくつか読んで思ったことを書いてみる。

インターネットの発達の歴史は、情報発信のしやすさの歴史だと思っている。

かつては、情報発信するにはサーバを用意し、自分でHTMLを書かなくてはならなかった。この手間を軽減するためにHTMLエディタが登場した。サーバを持たなくても発信できるよう、ジオシティーサービスが登場した。HTMLを全く知らなくても発信できるさるさる日記mixi、ブログサービスが登場した。自分で文章を書かなくても、他人の書いたエントリにコメントするだけのはてなブックマークが登場し、タイトルという概念を取っ払ったツイッターなど、どんどん発信に対する障壁が減ってきた。そして今やloT等により、発信を全く意識しなくても自動で発信されていたりする。

また、私はインターネットの質は、量によって決まるとも思っている。最も大切なことはそこに情報が存在すること。あとはその情報が多ければ多いほど質が高い。それが価値の高い情報かどうかは二の次で、付加価値をつけるのは第三者=情報を利用する人の能力だと思う。私が長らくやってきた個人ニュースサイトだって付加価値のひとつだったと思っている。

だから、インターネットを発達させるためには、情報を発信するための障壁をどんどん取り除くことが重要で、たくさんの会社がさまざまな工夫をして、Nクリックを1クリックへ、1クリックを0クリックへと変えてきた。こうして情報を利用する側は大きく成長してきたと思っている。

しかし、情報を発信する側は何も成長していなかった。
利用する側でありながら、自分自身が利用される側になっていることに気づいていない人も少なくないだろうか。

発言というものは、周囲の人にしか聞こえず残るものではなかった。しかし、インターネットでは全世界の人が知ることができ、半永久的に残り、転載もされやすい。この情報の検索可能性や残存性、拡散性など、違いを一つ一つ洗い出し、それぞれポジティブな面とネガティブな面でどのような影響があるのかを話し合うといった教育の場が必要なのではと思っている。

ときどき思うのだが、こういったことはどの世代も教育はされてこない。しかし昔からやってきた世代はこの辺の知識をしっかり持っている印象がある。単に初期の発信障壁が振るい落としてきた結果なのか、半年ROMってきたからなのか、あるいは被害が限定的な時代に失敗をして学んだからなのか。なぜか自分が普通に身に着けてきたことを誰かに教えるというのは非常に難しく、インターネットコミュニケーションの本を書こうとして挫折した経験がある。もし私がそういうことを仕事にすることになったら、炎上事例を集めて整理することから始めるのだと思うが、どうも苦手な分野のようなのでその辺は対応がうまい人にお任せしたい。

良いコミュニケーションで、良い人生を。
今まで見ることができなかったことが見えるようになった時代だからこそ、その影響を考え、その1クリックを大切に生きていかねばならない時代になったのだと思う。