まなめはうす

良いニュースで、良い人生を。

安心ほど高いものはない

今日は息子(3か月)と二人で代々木公園に行きました。ベビーカーでバスに乗るという初めてのタスクを消化したわけですが、このGWは息子がどんどん遠出記録を伸ばしていくことになりそうです。そんな代々木公園、今日はたくさんの視覚障がい者がジョギングしておりました。調べてみると、代々木公園練習会というもののようです。すれ違うたびに、ランナーと伴走者、というよりはほとんどは伴走者がランナーへずっと話しかけていました。走り続けながらずっと話し続けているなんて話題が持つのが凄い!…あと体力的にも。伴走者だって走っているのだから疲れますもんね。おそらく、声をかけ続けることでそこにいることを伝え、安心を与えているのだろうなぁと思って見ておりました。

そんなわけで「安心」について日頃思っていること。

「安心ほど高いものはない」とは良く言われる・・・と思ってググってみたら全然出てこなくてびっくりした。もしかしたらそんなに高くないのだろうか当たり前だなんて思われているのだろうか。だとしたら変えなくてはいけないのはその購入者の意識だろう。安心を積み上げるというのは、非常に難しい。プログラム開発をしている自分の場合は、安心を品質に置き換えて考えてしまうが、絶対にバグらないことなんて保証はできない。しかし、一定レベルまで達するとそれ以上の品質を出すには非常にお金がかかる。勉強だって、60点を80点にするのと、90点を100点にするのではやらねばならぬ量が全然違ってくる。2割間違えることができる安心感と、絶対に間違えられない不安の差である。どんな優秀な人だって、センター試験の満点を保証できる人はいないと思う。「結果の絶対的保証」には無理がある。だから、ある程度の保証レベルを維持するためにやることをやる。もし客が「バグ0件必達」と言われたら、絶対バグを出さないために何をしたら良いか教わりたいほどだ。その作業さえ決まってしまえば見積もりができる。それを考えるのがプロの仕事だろうと思うだろうが、プロだからこそバグを出さないことは無理だと分かっていて、だからこそ、最も効率的にバグを抑える作業を実施するし、そのために100個の作業があるとして、客から支払われるお金に応じて上位からどれだけやるかを決めるのだ。案外、プログラム開発における安心とは契約なのだろう。互いに合意した品質さえあれば、あとはその品質を出すために必要な作業を洗い出し、作業が決まれば価格が決まる。「絶対バグ出すな!」なんて言われたら安心できるわけがないが、決められた作業をやるのだったら安心できるというものだ。


良い安心感で、良い人生を。
安心は主観で、安全は客観なのだから、安心を与えるには相手を知らなくてはならない。まずはコミュニケーションからはじまる。そのコミュニケーション(=声)がそのまま安心に直結している伴走という役割はとてもシンプルで良いなと思った昼下がりの公園でした。